何もしていない自分が、少し後ろめたかった。
4月は、意外と体を削る。新しい環境、新しい顔ぶれ、新しいリズム。変化に対応しようとする意識は、知らないうちにエネルギーを使う。「頑張った」という実感がないまま、じわじわと疲れが積み上がっていく季節だ。
それなのに、5月に入ると世界はさらにギアを上げようとする。予定のない休日、昼まで寝てしまった朝、散歩の途中でただ立っているだけの時間。そういう瞬間に、どこかで「もっと何かしなければ」という声が聞こえていた。休むことへの、小さな罪悪感。それがいつから身についたのか、今となってはよくわからない。
彼の、迷いのなさ
彼は違う。
朝ごはんを食べたら、日のあたる場所を探してそこに寝る。夕方の散歩が終わったら、また寝る。特に理由はない。疲れているかどうかも、たぶんあまり関係ない。ただ、休む。その判断に、一切の迷いがない。
「これだけ動いたから休んでいいはず」とか、「もう少し何かしてから」とか、そういう計算をしている気配が、どこにもない。休みたいから、休む。それだけだ。
ただ、そこにいる。丸まって、目を閉じて、ときどき深く息をついて。そのそばにいると、なんとなく「ここにいていいんだ」という感覚をもらえる。休むことを、言葉ではなく存在で教えてくれる。
「何もしない」を、うまくできない
人間は、休むのが下手だと思う。
体を横にしながら、スマホを手放せない。休日のはずなのに、翌週のことを考えてしまう。「ゆっくりしよう」と決めたのに、気づけばなにかを片付けている。完全に何もしない、が意外と難しい。
それは怠けているのではなく、「休む練習」が足りていないだけなのかもしれない、と最近思う。
動き続けることは、ある意味では簡単だ。タスクをこなしていれば、充実しているような気持ちになれる。でも止まることには、意志がいる。意図的に、何もしないことを選ばなければ、体は動き続けようとする。
急がないことが、どこかへ続いている
目的地を決めない散歩、というのを時々やる。
行き先を決めずに外に出て、彼が興味を持った方向にとりあえず歩く。匂いが気になるなら、そこで止まる。知らない路地が面白そうなら、入ってみる。時間も、距離も、決めない。
そうすると、いつもの散歩では見ていなかったものが見える。塀に咲いた小さな花だったり、路地の奥に続く石畳だったり。急がないと、目に入ってくるものが変わる。
急がないことは、どこかへちゃんと続いている。それに気づいたのも、この子がいたからだ。
彼はもう、休んでいる。
