犬がもたらす静かな力――介助犬とセラピードッグがひらく、新しい関係のかたち
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犬がもたらす静かな力――介助犬とセラピードッグがひらく、新しい関係のかたち

介助犬やセラピードッグが人の心に与える影響を、科学的知見と実例を通して探る。

介助犬という言葉を聞いたことがあるだろうか。

街で見かけても、多くの人はその役割を詳しく知らないまま通り過ぎていく。 アニマルセラピーについても同じだ。動物との触れ合いが、 人の心や身体に静かな作用をもたらすという話は耳にしても、 それがどれほど生活の“重心”に触れているのか、実感としては遠い。

 

けれど、犬は不思議だ。 ハーネスをつけた一匹が、雑踏の端でほんの少し呼吸を整えているだけで、 周囲の空気がゆるやかに変わる。 何かを助けるためにそこにいるはずなのに、 その場にいる“誰か”の心まで、ふっとほどくような気配をまとっている。

補助犬とセラピードッグ、「機能」と「気配」を行き来する存在

補助犬は、明確な役割を持つ。日本では、視覚を補う盲導犬、聴覚を補う聴導犬、そして身体の動きを補う介助犬が、法的に「身体障害者補助犬」として認められている。1 盲導犬は視界を、聴導犬は音を、介助犬は日々の動作を静かに補う。 落とした鍵を拾う動作も、扉を押し開く仕草も、外出の不安を軽減し社会とのつながりを深めたり活力を与えることも、 作業というより“生活のリズムに寄り添うこと”に近い。2

 

一方、もうひとつ注目したい“気配”としての犬の在り方がある。

たとえば、国立成育医療センターで働くファシリティドッグ――病院に常勤し、入院する子どもたちとその家族、医療スタッフに寄り添うラブラドールのマサ 3だ。 この犬は、特定の“補助”を目的とするわけではない。 病室のベッドサイドでそっと体を横たえる。 時には手術に同行し、不安で震える胸の前で静かにそばにいる。 麻酔導入の前、採血、点滴、リハビリ、家族の面会―― どんな場面でも、犬は言葉を発さず、ただ“そこにいる”。

その存在は、ペットの延長でも、機能の延長でもない。 触覚、匂い、呼吸、存在の気配という身体感覚を通じて、 子どもたち、家族、医療者の間に“静かな安心”を編み込む。 それはまるで、都会のざわめきのなかで、 ひそやかに灯されるランプのような光だ。

 

だからセラピードッグ4(あるいはファシリティドッグ)とは、 誰かを支える“機能”と、世界をすこしだけ変える“気配”のあわいに立つ存在。 補助犬とセラピードッグという分類はあるけれど、 実際にはその境界を自在に行き来して、 人の生活の粒度をそっと整えてくれる。

 

補助犬は“機能”を担い、セラピードッグは“空気”を支える。 役割は違うのに、その境界は驚くほど滑らかだ。 どちらにも共通しているのは、 犬が人の生活に入り込むことで、 世界のレイヤーが静かに書き換えられていくこと。

科学が示す、犬と人のあいだに流れるもの

「犬といると落ち着く」という感覚は、単なる気分の問題ではない。 動物との触れ合いが、不安や緊張をほどき、 心拍や血圧までも穏やかにするという研究は数多くある。 胸の奥にたまったざわめきが、 犬と向き合うだけでわずかに沈静していく。

 

たとえば、セラピー犬との関わり(動物介在療法/AAT)は、ストレスホルモンの低下、心拍や血圧の安定化、感情の調整、社会性の改善など、多様な効果をもたらす可能性がある。5さらには、オキシトシンという“親密さ”に関わるホルモンが増えるとも言われ、 犬を見る、触れる、呼吸を揃える―― その一つひとつが、私たちの感情をていねいに並べ直してくれる。

実際、病院・高齢者施設・学校などのさまざまな場で、セラピー犬との触れ合いが“癒し”を超えて“回復”“心の再調整”“社会参加のきっかけ”になったという報告がある。6

このように、犬と人の絆(human–canine bond)7は、単なるペットとの関係を越え、人の心身のバランスを整える“センサー”として 人間の生活をやさしくチューニングする存在として扱われてきた。 補助犬もセラピードッグも、その延長線上にいる。

救われているのは、当事者だけではない

犬と関わることで、救われるのは“介助を受ける人”だけではない。

大病を患った家族を支える日々の中で、 心に余裕を失いかけていた人が、 ドッグランの砂の匂いと犬の呼吸に触れ、 前を向くきっかけを見つけたことがある。

あるいは、時間に縛られ、 数分の遅れにさえ心がざわついていた時期、 犬の歩幅に合わせてただ外を歩くだけで、 胸の緊張がすうっとほどけていった日もあった。

そして、遠い国で暮らした時期のことを思い出す。 知らない街のざわめきも、慣れないリズムも、 深夜の部屋に沈む静けさも、 すべてが自分の輪郭を曖昧にしていった頃、 そばにいた犬だけが、変わらない呼吸で寄り添ってくれた。 言葉も土地も定まらず、 自分がどこに立っているのか掴めなくなるあの感覚を、 彼らの存在がそっとつなぎとめてくれた。

 

それは劇的な変化ではない。 けれど、世界がほんの少しだけ柔らかくなる。 犬は、特定の“主”にだけ寄り添っているわけではなく、 その場にいるすべての人に、ちいさな救いの余白を残している。

“支え合う関係”という、これからの犬との向き合い方

犬は、援助の対象と援助する側―― その二択に収まる存在ではない。

犬と人の間には、 言葉にしないまま交換されていくものがある。 気配の重なり、生活のテンポ、呼吸の奥行き。 そのすべてが、日常のノイズを静かに整えていく。

だからこそ、私たちは 犬の役割を「ペット」「補助犬」「セラピードッグ」と 単純に分けてしまわず、 もっと広い関係として受け止めたい。

犬が隣にいるだけで生まれる安心も、 救いも、視界のひらきも、 誰かだけのものではなく、 ゆるやかに循環していくものだから。

となりにいる犬は、何をひらくか

となりの犬は、ときどき世界の輪郭を変えてしまう。 風の向き、光の落ち方、街のざわめき── そのすべてを、少しだけやわらかくしてくれる。

ただ寄り添うだけで、 日常の奥行きはひらき、 見落としていた景色がそっと立ち上がる。

あなたの隣にいる一匹は、 今日、どんな世界のレイヤーを見せてくれるだろう。

Footnotes

  1. 補助犬ユーザー受け入れガイドブック:医療機関編

  2. 補助犬ユーザー受け入れガイドブック:医療機関編 “誰もが安心して病院を利用するために”

  3. ファシリティドッグ「マサの部屋」

  4. Therapy Dog | Winkipedia

  5. The Role of Animal Assisted Therapy in the Rehabilitation of Mental Health Disorders: A Systematic Literature Review

  6. The Benefits of Dog-Assisted Therapy as Complementary Treatment in a Children’s Mental Health Day Hospital

  7. Human–canine bond