七月。
暑さというのは、不思議な力を持っている。
それは人から、少しずつ余計なものを剥がしていく。厚手の服を脱がせ、言葉を短くさせ、夕方になると「もう、いいや」と何かをあきらめさせる。冷房の効いた部屋で、私たちはようやく素の顔に戻る。夏は、人間がいちばん正直になる季節なのかもしれない。
そして、ふと隣を見ると、彼らはずっとそうだった。
取り繕わない、という潔さ
フレブルは、夏になると隠さない。
暑ければ床に伸び、苦しければ息を荒くし、機嫌が悪い日はそれを顔に出す。彼らには建前がない。「大丈夫なふり」も「平気な顔」もしない。ただ、そのときの自分のままでいる。
私たちは、それを少しだけうらやましく思う。
大人になるというのは、ある意味で「取り繕うこと」を覚えていく過程だ。本当は暑いのに笑顔をつくり、本当は疲れているのに大丈夫だと言う。そうやって社会と折り合いをつけてきた。けれど夏の盛り、彼らの正直な姿を見ていると、ふと思う。あんなふうに、自分の状態に素直でいられたら、と。
愛犬は、教えてくれているのかもしれない。正直でいることは、わがままではないということを。
日常という名の、建前
そして気づく。
毎日の暮らしには、知らないうちに積み重なった「建前」がある。決まった時間に起き、決まった道を歩き、決まった役割を演じる。それは悪いことではない。むしろ、生活を支える大切な秩序だ。
けれど、ときにその秩序ごと、どこかへ持っていきたくなる。
知らない街の、知らない朝。いつもの散歩道ではない場所。文脈から切り離されたとき、人はもう一段、正直になれる。「やらなければいけないこと」が遠ざかり、「いま、したいこと」だけが残る。
旅とは、たぶんそういうことだ。遠くへ行くことではなく、建前を一枚、置いてくること。
まだ、何も始まっていないのに
地図を開く。
クーラーボックスに水を詰める。リードと、いつものタオルと、彼のごはんをバッグに入れる。窓の外はもう、夏の光でいっぱいだ。
まだ、どこにも着いていない。なんなら、まだ玄関も出ていない。
でも、もう始まっている。この準備の時間そのものが、いちばん自由なのかもしれない。これから何が起きてもいいし、何も起きなくてもいい。ただ、彼と一緒に、どこかへ行ける。それだけで、夏は十分に正直だ。
さあ、行こう。
愛犬と一緒なら、どこへでも。
